FS*                                   昭和五十三年七月十四日 朝の御理解                     御神訓 「用心せよ わが心の鬼が わが身を責めるぞ」
 心の呵責の事でございましょうね。私は北京に居るます時分に、兵隊で招集されて半年、転々として山西省の山奥を、あの時分のことを思いますと、あの時分の頃からおかげを受けておったなあと、こういう御守護の中にあったなあ、不思議だなあと思うたけれども、それをおかげと実感しきってない。ね、
 一番始めに行った所が大谷(たいこく)、大谷(おおたに)という所でした。
 それから転戦して、いよいよ今日、後で皆さんに聞いて頂こうと思う所は、一番最後の守備地でしたけれども、大坪荘という、タ-ピンサンという所でした。
 大体支那字には、坪という字はないんですよ。字引をひいても。それがあったから不思議です。今から思うといよいよもってね、大坪荘という大きな部落でした。タ-ピンサンなんです。
 その、あちらにまいりましてから、軍服ではいけないんです。外出する時には、必ず便着を着らなきゃいけないんです。
 いわゆる、あちらの支那の人が着ておると同じような山間の部落ですから、ような着物を着とかにぁいけないんです。必ず麦藁帽子と大きい上は白、下は黒のいうなら服を着るんです。
 それがね、渡るんじぁないんです。部落に盜りに行かなきゃいけないんです。
 もう本当に、本当に私はあの事を思いますとね、もう、日本の兵隊が入って来るとたいがい逃げ散らかしてしまいますから、残って居るのは年寄りぐらいの者です。
 そして、もう殆どその金めになるような物は、ぜんぜん置いておりませんですね。 それでも、どうでも盗りに行かんならんのですからね、帽子も盗らんならん、とにかく道歩きよると、お前の帽子を俺にくれと。
 所が、私は悲しい事に、支那語が分かるわけです。中国語が。だから、相手が言っておる事が分かるんです。これ一枚しか着るのが無いから、と言って拝むように言うんです、持って行ってくれるなと言う事を。
 それでも、持っておるあらゆる物をやってね、そして、服をきれいに洗濯して、古い物でしたけれども、こう、小さなたんすのようなのに入れてあるのを、それと、ズボンと帽子を、貰うというより盗るわけです。まあ、威嚇して盗るわけです。
 けれども盗らなければ、こっちが助からん事ですから、それを、皆平気でやってましたけれども、私はどうもあの、一番最後に拝むように言うて、これだけは持って行ってくれぬな言った時の顔が、今でも心に浮かぶです。
 毎日、そのおじいさんの顔を思い出しては、あのう、天津祝詞を毎日一巻、どんなに忙しくても天津祝詞を上げました。
 それでもね、本当に、本当にこんなにいやな事はありませんですね。お互い、自分の、わが心の鬼が我身を責める。自分の心が自分の身を苛む。いよいよ以て改まらねばならない、清まらねばならない。
 今日、御心眼であのう、あれは『美保の松原で漁師と天人の出会いの場面』がありますね。あの場面をそれこそ、天女に着ている衣を返して、そのお礼に、天女が舞を舞い々昇天して行くという、ああいう場面でした。ね、
 松原にやってまいりますと、どこからともなしに、何んともいえんよい香りがしてくるんです。どういう事だろうかと思うた所が、松の枝に、今だかって見た事のないような、すばらしい衣が掛けてあるんです。
 これは儲かったと思うて、それを自分の物にしょうと思う所へ、天女が水あびをして上って、それは自分の物だから返してくれ、いや、これは、自分の家に持って帰って宝にする。しかし、その着物がないと自分は、天に帰れないんだと言うて懇願致します。それで可哀相になって、それを天女に返してやるという。そして、ぽかんと天女が舞上って行くのを、眺めておるような光景でした。
 もし、その漁師が、いよいよ欲を出して、いや、これはわしのもんだ、と言うて持って帰っておったら、どの位それこそ、心の呵責に苦しんだか分からない。
 そん時の天女の嘆きを思うたら、一生浮かばれないだろうと思います。そしたら、今日のこの御理解なんですから。
 私の何十年前の、大坪タ-ピンサンの出来事ですけれど、心にかかって、自分がそれで、苦しむ事を思い出したんです。
 そこで私共が思いますのにね、神様が求められるもの、神様が私共に願われるものその、神様が求められるもの、願われるもの、それは私にとっては大切な、こういものを取り上げられたら、生きる楽しみもない、といったような場合であってもです、神様に願われ、神様に頼まれる、求められるものがです、与えられる信心をさせて頂く所から私共は、いよいよ、いうならば心が楽になる。
 その楽な心が、おかげをキャッチする事になるのです。だんだん御教えを致しておりますと、神様が私に何を求め給うておるのか、神様が惜しい、欲しいじぁない、煎じ詰めると、氏子信心して、おかげを受けてくれよ、というその神の願いが、おかげをやりたいの一念が、私共に求め要望なさるのです。こうあってくれよ、こうあってくれよと、所がなかなかそれを与えようとしません。ね、お徳を受けたい。とりわけここで、修行しておりますお取り次ぎ者としての、おかげを頂くのですから、それこそ我情をお供えし、我欲をはずしてゆくという、ね、でなければならんのだけれども願いながらそれを、神様にお供えしようとしない。
 分っちゃおるけれども、それを分からんかのように駄々をこねておる。これではいつまでたっても、天衣の助かりにもならねば、漁師の助かりにもならない。
 それこそ、羽衣の内場面のような、結果しか生まれてまいりません。
 今朝から、私は、ある事をお願いさせて頂いて、本当に沢山な御信者さんが、それぞれの個性があります、それぞれの信心が違います。
 結局、それぞれが、立ち行くおかげを頂かねばなりません。誰のように、誰の真似というわけにはまいりません。結局、その人、その人の信心ですけれども、だからそれなりのおかげを頂いて、いよいよ自分の心の中に、止むに止まれん、昨日佐多先生が発表しとられましたように、自分のような者が許されてよいものか、という信心。 誰でも許されて、すぐ今んでも楽になりたい。けれどもそこには、自分のような者の自覚が出来て、自分のような者が許されてたまるかという、本当に自分自身にいうなら、今日の御理解でいうならば、心の呵責も、心の中に一つの罪悪感とでも申しましょうかね。まあ、お粗末御無礼の自分である事が見極められた時にです、これが簡単に、例えば許されよったら、またそういう事を繰り返すような自分になるやもしれん。
 自分がぎりぎりもう、いっちごしませんと、例えば子供を怒る時に、親が叩いたり押入れん中に入れたりしますけれども、もう、いっちごしませんといったような性根が出て来るまではです、そこから発する所の信心。
 楽はせんぞという、いよいよぎりぎりのものが生まれた時にです、その向こうに楽はさせずにはおかん、という働きが生まれてくるのですから、どうでも一ぺんは通らなければならない所ですけれども、今、それをみなに要求しても、これは自分自身がどうして言う事をきかん奴じゃろかと思うだけで、自分の心を苦しめねばなりませんから、ね、それぞれ、それなりの信心、それなりのおかげを下さって、そこの信心の成長を願う以外にないという事になります。
 昨日、ここの合楽の田中さんが、今朝からお夢を頂いたというてお届けがあった。 そのお夢の中で、はっきりとその前に大変きつい仕事をなさって大変な働き手ですから、まあ、しっかり働かれた。きつかった。
 そしたら神様がお夢の中でね、はっきり頂いておられる事は、ね、『きつかれば、きつい程、神へのお礼ぞ』と頂かれた。だから、勿論、ただ、きつい、きついじぁいかん、いいうならば、家業の行なんです。
 今日はもう、足腰立たんごとお使いまわし頂いて有り難うございます、という答えになって来なければならない。
 そこに神様は、きつければ、きつい程にね、お礼として受けて下さるという事。又これは反対に、佐多先生なら佐多先生の場合なんかはね、へとへとするように修行さしてもらいました。というてお礼が申し上げられる時に、いうならば、それを神様が佐多先生には『お詫びのしるしに受け取るぞ』というて下さるような気が致します。 そういう信心が、私は繰り返されていく、いうならば、尊い信心へと進んでいく。 私は今日は「我が心の鬼が、我が身を責める」という事だけではなくて、いうならば、神様が求められるもの、ね、いうならば、人が求めるもの、それを与えるという事は、あの与えるという字を訳しますと、数字の5を書いて一(ひく)と書いてあるですね(与)与えるという字は、数字の5を書いて中に一の字引くを〈書いてある〉 これは昔頂いた御理解ですけれども、与えるという事は、業を引く事になるんだと業というのは仏教的の「業(ごう)」という事。
 業が深いから難儀をしておるとわけです。ね、金光的にいえば、めぐりが深いから難儀をしておるわけです。そのめぐりが引かれる、与えるという事はとそのまま。
 だから与えるという事が、いうならば、めぐりのお取り払い頂く事であり、又は神様がお礼として受けて下さる。
 そういう内容の修行、そういう内容の家業の行をさせて頂きたいと思いますね。
 羽衣の中のいうならば、漁師と天女を思うてみてね、与えた時にはそれこそ、ぽか-んとなるような感じのする時もあります。
 もうそれこそ、心が空になり、虚ろになるからです。その虚ろになる、空になる、その心に神様が、有り難いものを与えて下さるんです。
 どこから湧いてくるか分からん有り難いという心は、それこそ与えに与え、神様の求めに「おう」と応えていけれた人達の上にだけ、有り難いというものは与えられるんだという事でございます。
          どうぞ。